新開地の思い出

山中一夫油絵展 映画名場面

子供の頃から映画が好きで、これは父が大の映画好きだったからです。
父は特に長谷川一夫が大好きだったので私の名前も一夫にしたそうです。
父は私を映画に連れて行ってもおとなしく見ていたのでよく連れて行ってくれました。
私の一番古い記憶では片岡千恵蔵の「難船崎の決闘」や、長谷川一夫・山田五十鈴共演の
「小判鮫」で、洋画ではワイズ・ミューラーのターザン映画などを覚えています。

映画好きの父が亡くなったのは平成15年12月14日で、忠臣蔵の討ち入りの日で映画好きの
父にはぴったりの命日となりました。

私は映画の影響か写真や絵やマンガなどの視覚に興味を持ちました。
子供の頃の記憶では手塚治虫の出始めの頃でよく「鬚おやじ」や「ランプ」などの
キャラクターを真似をして描いたものです。


映画館には絵看板が付きもので新開地では右をみても左を見ても素晴らしい絵が並んで
いて町全体が私の美術館でした、家の近くに20人ぐらいの人が働いている絵看板屋さんが
あり、その中で一番絵の上手い人がいてよく見に行きました。
その人の名前も知りませんでしたが顔はよく覚えていました、後にその人が私の先生と
なりましたが名前は古賀光男と言うお酒の好きな優しい人でした。


高校を卒業して父と牛乳販売店を始めました。
商売も繁昌して結婚もして子供も2人出来た頃から紙パックの牛乳の出現でスーパーで
牛乳の安売りが始まり牛乳販売も売り上げ減少となり始めた頃、私の家の近く永沢町に
「A宣」と言う劇場専門の看板屋が有り人を募集していたのでアルバイトで行く事になり、
その店に子供の頃から憧れていた絵の上手い先生がいて、趣味と実益で頑張りました。


社長の有本清二さんは元「聚楽館」の宣伝部にいた人で絵も文字も上手い人でした。
店には絵専門の古賀光男さん、文字専門の佐久間さん、それに私の4人で「聚楽館」や
阪急会館、阪急シネマ、阪急文化、三劇、三映、新聞会館大劇場、スカイシネマ、
国際松竹、国際日活などの看板を描いていましたが、忙しい時には大工さんや応援の
絵描きさんや文字書きさんが手伝いに来ていました。


一番忙しい時は一斉に映画が代わるお正月前、ゴールデンウィーク前でした。
それにポスター貼りのおっちゃんや画家さんなどが店によく出入りしていました。
映画館には原稿を貰いに行ったり看板の取り替えによく行っていましたので、顔パスで
映画がタダで見れたので面白そうな映画はよく見に行きました。
映画が面白くてヒットするとロングランをやるので看板屋は暇になりますが、客が来ない
映画の時は看板屋はいそがしくなりました。


予想外の映画は「燃えよドラゴン」で当時は香港映画は客が来ないもので、すぐ上映
打ち切りと次の看板を用意していたら、何と26週のロングランで看板屋が悲鳴をあげた
映画で「タワーリングインフェルノ」「ジョーズ」日本映画では「砂の器」が大ヒット
していました。


新開地にはレコード店、プロマイド店、1本の映画を2館で上映していましたので
フイルムを自転車やオートバイで運搬する人やサンドイッチマンが沢山いましたが、
今では見かけなくなりました。

私の先生は結婚3日目に赤紙が来て、泣きの涙で戦地へ行ったと言っていました。
絵が上手かったので将校の肖像画を何人も描かされたそうで、そのお陰で大事にされた
らしいです。
終戦になり、また看板画家になり戦前戦後の映画全盛時代に新開地で大活躍をしましたが
残念乍ら絵は残っていないので今では知る人もなく忘れ去られようとしています。


私が絵を残そうと思ったのはそんな先生を見ていたからかも知れません。
先生は優しい人でしたが62才で急に病気で亡くなりました。
その代役で私が1人で最初に描いた絵が「聚楽館」で上映する「ジョーズ」でした。
ベニヤ50枚の大看板でした、先生がいないので不安でしたが取り付けた看板を見て自分で
「いける」と自信が湧いて来て1978年10月の閉館まで勤めました。


その後は油絵のプロを目指して全国的な絵画絵画団体に入り、東京上野の美術館にも出品、

私を応援していた美術雑誌の倒産で絵を断念。

その後、8年ほど絵から遠ざかっていましたが、一緒に絵を勉強していた女性画家からの

誘いがあり、また絵を描き始めました。グループ展にも参加してギャラリーで初めて

映画の絵を描いて三点展示したら、ぜひ個展をしろと勧められました。
気が付いて見ると映画の斜陽で街から映画看板が無くなり、他の人の勧めもあって震災の翌年が
神戸に映画が上陸して100年の好機なので映画の絵で個展を始めて現在に至っています。

新開地の1946年〜1948年ごろの大きな出来事と言えば、新開地の
すぐ近くに米軍のキャンプがあった事です。
その頃は神戸新聞社も兵庫警察署も新開地に
ありまして、新開地は神戸文化の中心地でした。

ジャズですが、米兵がいたので米軍相手のバンドなどがいた様です。
どんなジャズが流行ったかは不明ですが、その頃は映画音楽がよく
流れていました。


「ボタンとリボン」 これは映画「腰抜け2丁拳銃」 のテーマソングです。
「駅馬車」のテーマメロディー、外国ものではこれらが大流行でした。

日本の歌は「りんごの歌」これを聞くと戦後を思い出しますし、戦争に
負けて打ちしおれた日本中の人々を元気付けた一番の歌ですね。


「帰り船」戦争に行って帰って来る兵隊さんの心を歌って大流行。


笠置しず子の「東京ブギ」とか、戦後は親に死なれた浮浪児がいたので
「東京シューシャンボーイ」シューシャンボーイとは靴磨きの少年の
事です。子供が靴磨きをしてお金を稼いでいました。

「悲しき口笛」 美空ひばりのヒット曲、あんな曲がぴったりの日本でした。


神戸を歌った歌では 「別れのブルース」


「窓を開ければ港が見える、メリケン波止場の灯が見える」 あれです。

浮浪児がテーマの映画では「鐘の鳴る丘」「忘れられた子ら」
「蜂の巣の子供達」など沢山あります、それぐらい浮浪児が沢山いました
まあ、ざっとこんなところでしょうか(笑)

ウエストキャンプ就労経験者からのお話です。

 当方そのウエストキャンプで暫く働きましたよ。
 確か米軍部隊名の表示の大きなゲートがあって黒人GIのいかめしい衛兵がいつも立哨していました。終戦直後、ある人のつでそのキャンプに就労したのですが、ただの一労務者として勤務いたしました。見上げるほどのアメリカ兵に顎で使われたのですが、毎日のキャンプ内の労役は戦争に負けた屈辱そのものでしたね。勝者と敗者のギャップをつくずく体感いたしました。


 でも終戦後の日本の劣悪な食料事情に比べるとキャンプ内の進駐郡軍の食料は驚く程贅沢なものでした。彼らの軍内の毎日の食事は当時の日本人にはまさに垂涎に値する程のご馳走でしたから。帰りに支給される大きいなコッペパンすら私達労務者には見たこともない高級食料でしたね。所謂パンパンと称する女性がキャンプの廻りに群がってしきりに黒人、白人兵士達に媚を売つていましたよ。
 今思うと嘘のような日々でしたが、若い青春の苦々しい思い出の一です。

昭和25年頃

昭和25年と言ば、日本が戦争に負けて6年目で私は小学校6年の頃です。
まず、日本は今のイラクの様に米軍の管理下の時代を頭において下さい。

> 一つ目は、大人と子どもの関わり方です。 
> 当時(昭和25年頃)は、
> 大人と子どもの関係はどんな感じだったでしょうか?


まず、その頃は学校の先生は皆、竹の鞭を持っていました。
言う事を聞かない子はバシッとしばかれます。
スズメの学校の先生はムチを振り振りチイパッバ、そんな歌があります。
そんな時代でした。
もちろん他人の子でも悪い事をすればどつかれましたし、怪我をする事が
あっても医者代などくれたらいい方で、どつかれ損みたいな時代でした。

> 二つ目は、新開地の昼と夜とで雰囲気についてです。
> 新開地では昼と夜の雰囲気に差はあったのでしょうか?


昼と夜ではガラッと変わります。
昔は遊廓がありましたし、夜になると売春婦が客の袖を引いていました。
米兵相手の売春婦がすごく沢山いました。貴女方には想像も出来るない
と思いますが事実です。売春婦の事をバンバンガールと呼んでいました。
昭和33年に売春禁止法が出来て、売春は地下に潜りました。


一般の人人の生活は貧しく生きる為に身を売る女の人が沢山いました。
「こんな女に誰がした」そんな歌が流行った時代です。
民家の回りは今の様に街灯もありませんし夜は暗いですが新開地は
不夜城の様に夜も遅くまで賑わっていました。

> まだ空襲から完全には復興していない状態だと思うのですが、
> 歓楽街なども栄えていたのでしょうか?


新開地には人が集まり、お金さえ出せば何でも有りましたし、人々の
楽しみは映画を見て帰りにラーメンを食べて帰るのが一般の楽しみでした。。
だから新開地は賑やかで繁栄していましたし、その頃は東京の浅草か
神戸の新開地か、と言われる程でした、

> 三つ目は、映画館の周りにあったお店についてです。
> 映画館の周りには、どんなお店があったのでしょうか?


レコード屋、プロマイド屋、向井の甘納豆や南京豆が飛ぶ様に売れて
いました、食堂なども繁盛してましたし、本屋、帽子屋、洋服屋、靴屋
新開地に行けば何でもありました。

> また、山中さんはどんなお店がお好きでしたか?


トシヤと言う食堂(これは今でも健在です)安くておいしいと評判です。

> 四つ目は、当時の服装や髪型や流行についてです。
> 当時はどんな服装で、どんな髪型だったのでしょうか?

今では珍しくもありませんが、フランス女優のビキニスタイルにはショックでしたね。

そんな時代でした。


女の人は体にピチッとしたタイトスカートやギャザの多いスカートなど
男は幅の広いズボンかな、その頃の映画で美空ひばりの「悲しき口笛」
なんか見るとよく分かります、私はビデオで持っているかも?
後で調べてみます。

> 最後は、神戸大空襲についてです。
> 空襲を受けたときにどんなことを感じられましたか?
> また、その復興に向けてがんばっていたことについて、
> なにか心に残っていることはあるでしょうか?


空襲に会つたのは私が7才の時で、雷が鳴つても爆弾と間違えて私は
「こわい」と言つてよく泣いたそうです。
今のイラクよりひどかつたですからね。父は兵隊で戦争に行っていないし
祖父に連れられて、逃げるのに必死でした。家も2度焼かれました。
食うや食わずの時代をよく生き抜いて来たと思いますよ(笑)


戦後は浮浪児が沢山いたので、浮浪児がテーマの映画も沢山ありました。
そんな戦後には西部劇がピッタリでしたね、幌馬車に乗って西部を
開拓する、何か戦後の復興と共通するものがあって西部劇の全盛時代
でしたね、

昭和35年頃の新開地と言えば米軍のウェストキャンプが撤去され戦後の黄金期
になりますね。 映画館も満員だったですね。 松竹座も聚楽館も東宝も東映も温泉劇場も健在でした。 釣り堀やスマートボール場、旧世代のゲームセンターも大いに賑わっていました。 三角公園も機能していましたね。 さらに神戸タワーも市街を見下ろしていました。 湊川公園にも小さいながら遊園地がありました。 街頭テレビがあったのはこのころでしたかね。 野外音楽堂も有りましたね。 春闘の頃ここに2万人の労働者が集結しました。 

 
「聚楽館」と「国際松竹」は同じ映画を時間をずらして上映していて、フイルムを交換すると1本で2館が商売出来るのでフイルム配達の人が自転車で走り回っていました。当時は何処の映画館もそうしていました。
配達が遅れると「フイルム延着の為しばらくお待ち下さい」なんて、よく言っていました。フィルムを運ぶ途中で強盗に会い缶を1つ盗まれて、映画館は黙って1巻抜けたまま上映しました、お客さんはけったいな顔して出て来たそうで、いろんな事がありました。
又、「聚楽館」の館長さんが看板の注文するのを忘れて、夕刊を見て気が付いて、私等は
徹夜で朝まで掛かって看板を入れ替えた事もありました(笑)
お茶子さんがいて、休憩時間にお菓子を売り歩いていました。


チンドン屋は4、5人で商店の開業や大売り出しなどの宣伝が主な仕事ですが。
サンドイッチマンは一人で映画のポスターをベニヤ板に張り付けた看板を前と背中に
ぶら下げて歩いて宣伝する人の事です、歩く立て看板と言った方がいいかもね。
鶴田浩二が「街のサンドイッチマン」と言う歌を歌ってヒットしました。
映画の街には何処でもいた様ですが、映画の衰退と共に姿を消しました。

大道芸人はガマの油売りとか、居合い抜きで人を集めて物を売るとか、似顔絵を描いて拡大器を売ったり、集めた客を逃がさない様に「この中にスリがいるから、立ち去る人はあやしい」なんて言ったりして、面白い人が多く来ていました。
フーテンの寅さんの様に啖呵売の上手い人も沢山来ていました。

 新開地における戦後の大きな出来事と言えば先にも書きましたが、米軍のウェストキャ
ンプの存在です。 三宮のイーストキャンプは比較的早期に撤去されましたがこのウェス
トキャンプは戦後長く残り新開地の戦後復興を阻害します。 今では基地が有ったことを
知る人もほとんどいなくなりました。 それに追い打ちをかけたのが昭和32年の神戸市
役所の神戸駅前から三宮・加納町への移転です。 市の行政の中心の移転です。 そして
新開地を南北に分断する道の拡張です。 おそらくこれが決定的なものになったのでしょ
うね。 


 神戸高速鉄道の発足によりその東西線と南北線の乗り換え駅となり、地下街の「メトロ
神戸」が出来、その地下を通って南北の通行はできるのですが心理的抵抗が作用したので
したのでしょうね。 さらに追い打ちをかけたのが市電の廃止です。人通りが減少して行
きました。 それに伴う映画館・劇場、の減少、有名料理店の三宮への移転、廃業、それ
に替わったのがパチンコ屋の乱立、ドヤ街の反映となって行きました。 健全な歓楽街の
イメージが徐々に損なわれて行きました。 一方三宮は神戸国際会館、交通センタービル、
神戸新聞会館、市役所と当時としては高層ビルが林立し、さらに”さんちかタウン”とい
う坂のある地下街が人気を呼びました。 東京・新宿のサブナードなどこれを手本に建設
されたと言われています。 そして高層商業施設のさんプラザ、センタープラザ、センタ
ープラザ西館との3棟の全体で 汽船を彷彿とさせる大型施設の再開発そしてリビング館、
男館、レディース館、パレックス、スポーツワールド33等で構成されるいわゆる”ダイ
エー村”の 形成です。 そしてこうべまつりの開催、その出発地が市役所南に位置する
東遊園地になりました。 そうして常に情報を発信しここに来れば”何か”があるとワク
ワクさせるところと市民に意識される存在になって行きました。 それに引き替え新開地
は意識されることは無くなって行きました。 僅かに神戸タワーが撤去される時、郷愁を
呼んだモノとして話題になりました。  こうして新開地とは随分較差がつくようになり
ました。
 その基点が神戸ウェストキャンプの存在です。

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